2008-05-07

上野公園周辺のレトロな建物

今日も、昨日に引き続きよいお天気で暑かったですねーーー。
GWも終わり、また通常のお仕事モードに戻りました。
でも、今週は明日と明後日でまた週末が来ますので、
GWボケの頭のリハビリ週間といったところでしょうか。

さてさて、昨日「薬師寺展」に行ったことを日記に書きましたが、
あまりのお天気のよさに、上野公園周辺から根津、千駄木、谷中とお散歩してきました。

まずは、東京国立博物館敷地内の表慶館。

東京国立博物館表慶館


確か去年くらいまで修復工事をしていたんですよね。
明治末期に建てられた洋館建築で、設計はかのJ.コンドルの弟子である日本人だそうです。
現在は、「みどりのライオン」という愛称で、教育普及館になっているそうです。
今回は中は見てきませんでした。

で、その愛称の元となっている2頭のライオンさんが入り口の前に鎮座ましましているのですが

吽ライオン阿ライオン


ちゃんと口の形が阿吽になっています。
姿は西洋風のライオンですが、こんなところにも狛犬の阿吽が生かされているのですねぇ。

博物館の正門を出て、右に行くと左手になにやらクラシックな建物が見えてきました。

旧東京音楽学校奏楽堂

旧東京音楽学校奏楽堂(表札)

明治23年に建てられた、日本最古の木造洋式音楽ホールだそうです。
芸大の学生さんたちによる演奏会が定期的に開かれているようです。
詳しくはこちら↓
http://www.taitocity.net/taito/sougakudou/index.html

そして、もう少し先まで行くと角のところにまたまた惹かれる建物が・・・

黒田記念館


これは、洋画家の黒田清輝の遺産によって昭和3年に建てられたそうです。
その後、美術研究所として使用されていたものを改修し、
平成13年から黒田記念館としてリニューアルオープンしたとのことです。
現在では、遺族から寄贈された作品の収蔵や研究と、陳列なども行われているとのことで
詳しくはこちらで↓
http://www.tobunken.go.jp/kuroda/

そして、黒田記念館のすぐお隣にも素敵な洋館建築が・・・

子ども図書館


どこかヨーロッパのお城かいな?と思うような、建物ですが
こちらは国立国会図書館の関連施設で、国際子ども図書館です。
この建物はもともと帝国図書館として、明治39年に建てられたそうです。
戦後、国会図書館の上野支部となり、平成12年から国際子ども図書館となっています。
日本で初の国立児童書専門図書館だそうです。
というわけで詳しくはこちら↓
http://www.kodomo.go.jp/index.jsp

残念ながら昨日は休館していて入ることができませんでした。

このように、明治から昭和初期の洋館建築の博物館のような上野公園周辺です。
他にも、国立科学博物館の建物や国立博物館の本館もレトロな建築物ですし、
西洋美術館の建物は、ル・コルビジェの日本で唯一の建築なのだそうです。
(これに関しては、竣工昭和34年ということで私的にはモダンすぎるのですが)

今回は行きませんでしたが、不忍池を挟んで湯島の方には、旧岩崎邸庭園の洋館や
もう少し足を延ばすと、東大本郷キャンパスの校舎など
レトロ建築を楽しむのには絶好のお散歩エリアではないかと思います。

さて、昨日の散歩はまだ続くのですが、なぜか画像がうまくアップロードできないので
続きはまた後ほど。




2008-05-06

「薬師寺展」行って来たーーー!

GWの最終日。
4連休の最後になって、やっと晴れました。

せっかくの気持ちがいい休日なので
かねてより行きたいと思っていた「薬師寺展」に行ってきました。

連休最終日だし、天気もいいし、話題になってるし、混んでるだろうなーーー
と懸念しつつ、JRの鶯谷駅から東京国立博物館を目指します。

上野公園内とはいっても、上野駅から行くと一番どん詰まりで
しかも公園口は、めちゃくちゃ混んでいるので、
国立博物館に直行する時は鶯谷駅から行きます。

こちらのルートは、人も少ないし、博物館の裏から回るので静かで緑も多い穴場ルートです。

入り口に着くと、思ったほどの混み具合ではありませんでした。
よかったーーー。
以前、天台展にきたときには、平成館の入り口からぐるりと30分並びましたから
今日もそのくらいの覚悟はしてきたのですが、あっさり入れました。

しかし、中はやはりかなりの混雑でした。
音声ガイドを借りようと思ったのですが、ここは長蛇の列になっていたのであきらめました。

目玉はやはり、話題の日光・月光両菩薩立像ですね。
思ったよりふくよかでがっしりした体格なのが印象的でした。

両像の前に、少し高い位置にお立ち台というかバルコニーみたいのが設けてあるのですが、
ここに立つと胸の位置が目線の高さになります。
(背が高い人なら顔の正面が見られるかもしれません。私は背が低いので・・・)
この目線は、現地薬師寺では絶対に見ることができないものですね。
さすが、博物館での展示ならではという鑑賞の仕方です。

もちろん、現地と同じように床から上に見上げることもできます。

これらの菩薩像は高さが3メートル以上もあるのですが、
一度に鋳造されているといると聞いて、当時の鋳造技術の高さに驚かされます。
衣の襞なども滑らかで、とても美しいです。

そして、なんといっても背中。
普段は光背を背にしているので、背中を見ることなど不可能なのですが、
今回は光背をはずして、東京にいらっしゃっているので
360度ぐるりと見ることができます。
見えないからと手抜きをしていない、きれいな背中です。
仏を完璧に表現するという当時の作り手たちの気持ちが伝わってくるようです。

図録の説明によると、インドの4世紀〜6世紀に栄えたグプタ朝様式の影響が見られるそうです。
首と腰の部分で三つ折れにする形を三曲法といいますが、
これは、インドのヒンドゥー寺院の石彫り彫刻にもよく見られる姿です。

1体だけ見るとアシンメトリーなのですが、二体を対にして配置するとシンメトリーになるところが
不安定さと安定感の絶妙なバランスによる美しさなのではないかと感じました。

薬師寺が建立されたのは7世紀のおわりから8世紀初頭といわれています。
これは、日本に仏教が伝わってから約150年くらいの時期と思われます。

当時、中国では玄奘が17年間もかかってインドを往復し経典を持ち帰り、
サンスクリット語で書かれたそれらのうちの1300巻以上も翻訳したそうです。
そして、日本には遣唐使が唐から持ち帰った経典や仏像などが伝えられました。

展示してあった仏足石は、日本最古のものですが、
インドのサールナート(お釈迦様が初めて説法をした地)の仏足跡を唐の人が写し、
それをさらに遣唐使が長安で写して奈良に持ち帰ったとのことです。

他にも国宝の吉祥天像(インドの女神でラクシュミー)など
まさに仏教が「天竺渡来」のものであることが実感できる時代だったと思います。

6月8日までやってます。
ぜひ一度行かれることをおすすめします。
って、別に博物館とか薬師寺の回し者じゃないけど・・・



http://www.tnm.go.jp/jp/servlet/Con?pageId=A01&processId=02&event_id=5129

2007-10-22

人生の4つの区分(四住期)

ヒンドゥーの人生には、4つの区分があります。
これを四住期といい、サンスクリットではアーシュラマと呼びます。
これらは、ダルマシャーストラという文献に定められていて、
特に「マヌの法典」が最も重要視されています。
(世界史の教科書にも出てきていましたよね→マヌの法典)

1 学生期(がくしょうき) − ブラフマチャーリン −<師について学問、修行をする期間。>
   
   子供が学齢に達すると、「聖紐式」という儀式を経て家を去り、
   人里はなれた森などに住む師の元に住み込みで学問を修める。
   この場合の学問とは、ヴェーダ、ヨーガ、聖典の学習であり、
   厳しい戒律を守り、修行するのである。
   師を父として第二の誕生をすることから、彼らはドゥヴィジャ(再生族)
   と呼ばれている。
   学生期はだいたい25歳くらいまでに終える。

2 家長期(かちょうき)または家住期(かじゅうき) − グリハスタ −
  <家族を養い家庭生活を送る期間。>

   師の下での修行を終えると、彼らは家に戻り、結婚する。
   家長は、家庭を営み、職業により物質的な収入を得、子供(特に息子)をもうけ、
   子供たちに教育を施し、結婚させる。
   また、収入の一部を寄付したり、社会的な義務を果たす。

3 林住期(りんじゅうき) − ヴァーナプラスタ − <家督を息子に譲り引退する。>

   中年期頃になると、子供たちは結婚し、両親の元から独立する。
   家のことは息子に譲り、現世的な欲や執着を捨て、瞑想をしたり、
   夫婦で精神的な研究に時間を費やす。
   人によっては、森などに移り住み静かな環境で過ごす。
   (もともとは、森に住むことを意味したが、現代では必ずしもそうではない)

4 遊行期(ゆぎょうき) − サニャーシン − <家を出、聖地を巡礼しながら人生を終える。>

   解脱を求める人は、所有を捨て、世間との関わりを断ち、巡礼の旅に出る。
   彼らは、一般の人からの施し者や森などにある木の実、果物を食す。
   悟りをひらくために、瞑想などをして過ごし、聖地に赴く。
   しばしば、聖地に於いて人生を終えることを幸福と考えている。


これらは、古代の聖典に規定されているダルマ(義務)であって、
現代では必ずしもこの通りに人生を送っているわけではないようです。

しかし、子供が学生期の年齢に達すると、左肩から右脇にを撚った3本の紐をかけ、
「聖紐式(ウパナヤナ)」は重要な通過儀礼として現代にも継承されています。
そして、定められた学校教育を受けることになりますが、特にバラモン階級の場合、
父や祖父などからマントラや聖典を教わるのだそうです。

また、成長して成人になると、親が占星術などで相性の良い結婚相手を決め、
家庭を築くというのは現代でも行われていることです。
都市部では恋愛結婚というのもあることはあるようですが、
社会的な慣習などまだまだ大半は保守的であり、見合い結婚が主流なのだそうです。

すべての人が遊行期として、出家するわけではないようですが、
ベナレスやハリドワールなどの聖地には、多くのサドゥーと呼ばれる修行者が集まったり、
余命いくばくもない老人を看取るためのホスピスのような施設があったりします。

この四住期は、ヒンドゥーすべての人の人生というわけではありません。
上位3カースト(バラモン・クシャトリヤ・ヴァイシャ)の男子に限られ、
女性とシュードラ階級は除外されています。

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この記事は、他ブログから引越し及び加筆修正しました。

2007-10-21

インド密教の成立と展開

「密教」と聞いて、ある人は日本で発展した天台あるいは真言密教を思い浮かべ、
またある人はチベット密教を思い浮かべるかもしれません。
このように密教は現代の私たちにも身近な存在といえるでしょう。
前者は平安初期に伝来して以来、日本人の文化や生活に深く入り込んでいるし、
後者はダライ・ラマ師の講演活動やノーベル平和賞の受賞、
また精神世界や神秘思想に対して世界的に関心が高まる中、大いに注目されています。

これらの密教は元々インドで成立したものですが、中国経由で日本に伝えられた「日本密教」と、
インド後期密教が直接伝えられた「チベット密教」とでは、その中身に大きな違いが見られます。
そこで、これらの源であるインド密教について、その成立と発展の過程を辿ってみることにします。

密教の起こりは、ヒンドゥータントリズムの影響を受け、
大乗仏教から次第に発展していったと考えられています。
インド仏教史において密教は後期仏教に位置づけられ、その中で3期に分けられています。

まず、初期密教は所作(クリヤー)タントラの段階で、「雑密(ぞうみつ)」と呼ばれています。
4世紀ごろから萌芽が見られるようになり、陀羅尼(だらに)や真言(しんごん)を唱え、
神仏の加護を願い、祈祷を行うというもので、主に現世利益に比重が置かれていました。
6世紀後半には、アタルヴァヴェーダの呪術的儀礼が取り入れられ、
密教としてはっきりとした形ができてきたと考えられています。

続く中期密教は、日本で「純密(じゅんみつ)」と呼ばれています。
『大日経』『金剛頂経』が成立し密教が体系化された時期でもあります。
空海によって日本に伝えられた密教はこの段階のものです。

『大日経』では、毘盧遮那如来(びるしゃなにょらい)がその中心的な仏です。
大日如来とも呼ばれ、太陽の光が遍く世界を照らすように
智慧の光で衆生を照らし救済するとされています。
『大日経』の教えは行(チャリヤー)タントラと呼ばれ、
胎蔵界曼荼羅は、その教えを図像化したものです。

次いで成立したのが『金剛頂経』です。
『大日経』と同じく大日如来を中心にしてますが、
瑜伽(ヨーガ)タントラと呼ばれるように、ヨーガの実践に重点が置かれました。
瑜伽行とは、身・口・意の三密業により自分の心を観想し、
それによって自己と大日如来が一体となる「入我我入」をめざす行法です。

「身」は身体つまり手で印を結ぶ(ムドラー)動作、「口」は陀羅尼や真言を口で唱えること、
「意」は心の中に仏をイメージすること。
これら3つの業(行為)によって瑜伽法の成就を目指したもので、
金剛界曼荼羅はその教えを図像化したものです。

『大日経』が衆生救済、菩提心、他者への抜苦与楽を目指したのに対し、
『金剛頂経』では絶対者との合一(ヨーガ)、その結果としての悟りが重要視されています。
『金剛頂経』は全部で十八会ありますが、その第六会にあたる『理趣経』において
「男女の性的結合の快楽の境地が菩薩の境地である」と説かれています。
この思想は次に現れる後期密教に続き、さらに発展していきます。

後期密教は無上瑜伽タントラと呼ばれ、日本には伝えられることが無かった思想です。
中期密教までと比べると性的なヨーガが重視されており、さらに秘密性が強まったといえるでしょう。
タントラ仏教とも呼ばれていて、現在ではチベット仏教にその姿を見ることができます。

方便(実践)を主とする父タントラの代表的な経典は『秘密集会タントラ』で、
般若(智慧)を主とする母タントラの代表経典は『呼金剛(ヘーヴァジュラ)タントラ』です。

『秘密集会タントラ』で示されている教えは、
物質世界の一切が仏であり、輪廻する衆生と共に曼荼羅を構成していることを観想し、
執着から離れること。これを「生起次第」といいます。
一方、『呼金剛(ヘーヴァジュラ)タントラ』ではヒンドゥー教シャクティ派の影響を受け、
ハタヨーガが取り入れられ、呼吸や性エネルギーをコントロールして仏と一体化することを
目指しました。これを「究竟次第」といいます。

インドにおける実際の聖地とその聖地を身体上になぞらえて巡る「聖地巡礼」による自己浄化、
人体内に存在するとされる、4つのチャクラと3つのナディー(脈管)を通して
エネルギーを上昇させ悟りの完成を目指した「四輪三脈の身体観」など
その行法は極めて独特なものであったとされています。

さらに、この二つを統合して11世紀ごろに成立したと考えられているのが
最終段階の密教『時輪(カーラチャクラ)タントラ』です。
ここでは般若(智慧)と方便(実践)の不二(相対して見えるが実は同一である)や、
本初仏(如来を超える根源的な存在)という概念が説かれていることに注目されています。
この最後期の『時輪(カーラチャクラ)タントラ』については、長く秘密とされていたことから
タントラ文献の中でも、まだ十分に解明されていない部分が多いようです。

さて、その後インドにおける仏教は徐々にその独自性を失い、教団が崩壊し、
信者はヒンドゥー教に吸収され、ついに1203年イスラムの進攻により滅亡してしまいました。
ここに、仏教はその発祥地であるインドから完全に姿を消すことになったのでした。

以上、インド密教の成立と展開について順を追って述べてきました。
簡単ではありますが、各段階においてどのように成立し、展開され、
次の段階に受け継がれて行ったのか概観することができたのではないかと思います。


参考文献
金岡秀友.『アジア仏教史 インド編IV 密教〈最後の仏教〉』佼成出版社,1974年
田中公明.『チベット密教』春秋社,1993年
西尾秀生.『ヒンドゥー教と仏教 比較宗教の視点から』ナカニシヤ出版,2001年
早島鏡正・高崎直道・原実・前田専学.『インド思想史』東京大学出版会,1982年

※この記事は管理人が某所に提出したレポートの文章に加筆修正したものです。

2007-10-21

インド的時間

よく「インド時間」なんて言いますよね。
インドでは平気で何時間も列車が遅れたり、人を待たせたりすると聞きます。
でも、彼らにすれば「No problem」なのだとか。

このインド的おおらかさは、悠久の昔から続くインド人の時間の観念が根本にあると考えます。

インドには「歴史」がありません。
いえ、正確に言うと西洋的観点からみた「歴史」という概念とは違うのです。

古代の2大叙事詩として有名な『マハー・パーラタ』や『ラーマーヤナ』は
「イティハーサ」とよばれています。
(内容はインドと関係ないけどこういうタイトルのマンガがありますね)

「イティハーサ」を梵英辞典で引くと次のような英単語に訳されています。
「talk, legend, tradition, history, traditional accounts of former events, heroic history
彼らにとっての歴史とは、太古の時代の英雄物語における「伝説」や
プラーナという「古譚」(古い物語)です。

インドの古典に関する書物などを読んでいると、成立年代が特定されていないものがほとんどです。
書かれている内容の比較や文法、その他周辺的要因から推定するしかないので
成立年代として記載されているものは軽く何百年もの幅があります。
お釈迦様の生没年も南伝と北伝では、100年くらいの開きがあります。

でも世界史の教科書に年代が書かれているよ、という意見があるかもしれません。
そこに記述されている古代インドに関する年代というのは、
ヨーロッパ人や中国人との関わりによって彼ら側の資料に記されたものから辿ったり、
推定したりして研究されたものなのです。
インド人自身の手によって特定された年代ではありません。

インド人の、特に村に住んでいる人やお年寄りなど、昔からの生活様式で暮らしている人たちは
自分の年齢を知りません。
無知で数を数えられないから、年齢を数えられないのではありません。
彼らにとって、年齢というのは意味が無いのです。

西洋人や、西洋的歴史観を植えつけられた日本人にとって、「時間」の流れは直線的です。
一番顕著なのは、歴史の年表ですね。
ある方向から別の方向へ、年代が直線的に進んでいきます。
しかも、不思議なのはすべての歴史がキリストの誕生、つまり紀元を基準に量られていることです。

歴史を遡るとき、最初降順に年数が減って行きますが、
紀元を境にまるで負の数のように紀元前として年数を逆行させていきます。
あたかも西暦0年以前は歴史の外といわんばかりに。
この数え方は17世紀にフランス人の神学者により提唱され、18世紀以降に一般化したそうです。
現在では当たり前のように受け入れていますが、非常に最近のことだったんですね。

話が逸れてしまいました。元に戻しますと、インド的時間の流れは円環的です。
創造と維持と破壊と再生を永遠に繰り返します。
私たち人間は、その輪の中に生まれ成長し老いて死にますが、
再びその輪のどこかに生まれ、死に、生まれ、死にを繰り返します。これが輪廻です。

インド人は魂の永遠性・不滅性を信じていますので、
この肉体での人生は一時的なものと知っています。
いつか肉体が古くなり時期が来れば離れ、また新しい身体を得られると思っているので
年齢に意味を見出さないのだそうです。
あるいは、この永遠のサイクルから脱出するために修行をし、解脱を目指す人もいます。

どこが始まりでどこが終わりかはインド人にとって意味がありません。
どの出来事が、何年何月に起こったとか、誰が何年何月に王位についたというような記録は
必要がないらしいのです。
確かにプララヤと呼ばれる「世界の帰滅の時」という概念もあります。
しかしまた世界は創造されるのです。

私たちは昼間活動をし、夜活動を止めて眠りにつきますが、
これで人生が終わってしまうとは誰も考えません。
また朝になれば目を覚まし活動を再開することを知っているからです。
しかし、死ぬことを恐れるのはそこですべてが消滅してしまうと考えるからです。

もし、命の永遠性を知っていれば、夜眠るがごとく死に望み、
また朝起きるように生まれることができるかもしれません。
世界の帰滅のときは、夜ブラフマン(梵天−宇宙創造の神)が眠るに入るだけで、
朝になればブラフマンが目覚めて世界を創造する、というのがインド哲学の考え方です。

この永遠に続く時間のサイクルの中では、1年も10年もたいした違いはないのでしょう。
ましてや30分、1時間なんてインド人にとってはこだわるほどの時間ではないのかもしれません。

このようないつからとも知れない時間的感覚がインド人の遺伝子には刷り込まれていて、
それゆえに今でも「インド時間」が続いているのかもしれませんね。

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この記事は、他ブログから引っ越してきました。

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は〜てぃ

Author:は〜てぃ
インドにかかわること十数年。
HP「天竺迦羅倶利庵」管理人。

風の向くまま、気の向くまま
天竺をふらりと彷徨うかのような
気まぐれなブログですが
どうか、お付き合いくださいませ。

★開設当初の日記は、
他ブログからの引越しも含みます★

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